戦士としての兵(つわもの)と武士の出現と成長。

武士(在地領主)の登場は11世紀中葉以降であり、 源頼義・義家やその郎党たちあたりからようやく武士とよばれる。英雄的武士といわれる平将門が活躍したのは10世紀前半で、在地領主でなかった将門は学会では武士とは呼ばれず兵(つわもの)とよばれる。武士と、土地を守るために武装したといわれる在地領主を切り離してみると、武士とは戦闘を職能とする戦士であり、国家に反逆する者を追討する国家の軍事力だった。

武士が出現する前の対外戦争を想定した古代律令国家の軍制と10世紀以降群盗海賊蜂起など国内で発生する犯罪や民衆の抵抗運動・反権力武装蜂起を鎮圧するための軍事力としての武士の出現と成長はどうゆう関係にあるのか考察する。

世界の古代国家は国土全体を城壁で囲む城壁都市からはじまった。
秦始皇帝は2700kmに達する万里長城によって、朝鮮半島でも、相互に抗争する高句麗・百済・新羅が全土に山城を築いた。

ところが日本の古代国家は、ごく一時期を除いて、城を築かなかった。
平城京にも平安京にも城壁はない。
日本の都城は無防備都市だったのである。

旧唐書倭国伝(くとうじょわこくでん)には ”城郭なし”と特記している。
都城が焼け落ち、王朝が攻め滅ぼされる経験を何度となくしてきた中国人には驚くべきことだったのである。

日本の古代国家に城がなかった理由は日本列島をとりまく海が建設費も維持費もいらない天然の万里長城だったのだ。

日本で、城を築いた時期とは、7世紀唐・新羅連合軍に百済が滅ぼされその復興を画策し援軍を送り込むが白村江で壊滅的敗北を喫した時、天智政権は翌年から大宰府防衛のため朝鮮式山城を築いた。高麗がモンゴル帝国に屈服した後13世紀後半に元寇がおきた時城壁を築いた。以上のごく一時期を除き日本は城壁を築かなかった。

地理的条件により日本古代国家は防衛のための高コストの常備軍を持つ必要がなかった。

必要な時に臨時に動員するだけの低コストの軍隊は、人口や国力に比しておそろしく大量の動員を可能にした。弥生時代の”ムラ”の首長が共同体成員を指揮して他の”ムラ”と戦った戦闘組織の延長で、対外戦争のため大和朝廷が首長に動員令を出し首長の指揮で共同体成員全体が武装する高度に発展し組織化された形態が奈良時代の軍団兵士制であった。日本は百済救援戦争に敗北していたがその後の朝鮮半島支配をめぐる新羅・唐の全面戦争のなかで新羅は背後の脅威を除くため日本に朝貢するようになった。

この新羅の日本への朝貢を続けさせるため律令軍制建設・保持することになった。

6世紀から8世紀にかけての時代の日本を取り巻く東アジアの情勢は、今日の日本人には想像もできないほど緊迫した状況にあった。

6世紀前半に日本は伽耶諸国(任那)や百済を支援して高句麗に対抗したこともあったが、6世紀後半には朝鮮半島から手を引いた。
そして7世紀に入ると、隋をたおして大帝国を築いた唐が領土拡大をはかって朝鮮半島に進出し、百済・高句麗を滅ぼし、百済救援のため出兵した日本軍も663年の白村江の戦いで壊滅した。唐の大軍の日本に今にも押し寄せてくる勢いになっていた。
一方大化の改新および7〜8世紀のころ日本国内は継体天皇以降、天皇を傀儡として蘇我氏や物部氏などの皇位をめぐる凄惨な争いが繰り返されていた。心あるものは一刻も早い中央集権的統一国家の樹立を待ち望んだ。

    

8世紀、奈良時代の律令国家は、一般農民である公民1戸から一人を徴兵する大規模軍隊を対外戦争を想定して保持していた。

1戸1兵士とした場合、全国総戸数約20万戸から徴兵された律令国家の総兵力は約20万人に達した。人口は600万人〜700万人と推定されており現在自衛隊総兵力が15万人とくらべ巨大な軍隊を持っていたことがわかる。

徴兵された兵士は基準兵力1千人の軍団に配属され、交代で60日間歩兵集団戦術の画一的訓練をうけた。徴兵制が成り立つため兵士役の負担が各戸に公平にかかるようまた経済的にも兵士役が抜けても各戸が成り立つよう律令国家の公民支配の根幹である編戸制と班田制が採用されていった。

兵士は税金や公共土木事業への強制労働は免除されていた。
律令国家では宮都警備のための衛士,中央官庁で使役するための仕丁、官都造営・寺院建立そして大仏造立のための雇役など、大量の公民を役夫として京に動員することで運営・維持されていた。

中央政府や国司を悩ませた民衆の抵抗は逃亡であった。役夫の逃亡にたいし断固たる措置を講じておかなければ、律令国家の中央集権支配そのものを崩壊させるものであった。

軍団兵士の任務はあくまで対外戦争を想定したものであり唐帝国の動揺により宝亀11年(780)新羅の朝貢を放棄することとし延暦11年(792)奥羽・大宰府管内を除き巨大軍制を全廃した。
8世紀末以降律令国家は規制緩和政策をすすめ、班田制の廃止から有力農民の田地集積が容易になり大規模な豪農層へ成長していく。

これにより9世紀には郡司の伝統的郡内支配は成り立たなくなり国司(受領と任用の2つの身分がある。)みずから国内支配を進めなくてはならなくなった。律令制の衰退から9世紀中葉以降の群盗海賊蜂起など国内で発生する犯罪や民衆の抵抗運動がおき(郡司・富豪層の反受領・反国司武装闘争という側面があった。)、これらの鎮圧にたいしては10世紀になると新たな軍事動員システムが創設され戦士身分の武士を生み出していく。
 
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